12/22(Sun.)

明日から二週間、ネパールに行ってきます。22歳の時に行ったので、八年ぶり。


これが年内最後の更新になるので、ちょこっとだけ2013年のまとめを。

色々と変化の一年でした。
二月に婚姻届を出し、三月に博士号を取得、四月からドイツでポスドクを始めた。そして八月には一時帰国で結婚式。 何だかもう全てが遠い昔のように感じられます。

それぞれをもう少し振り返ってみると、婚姻届は北海道の札幌市で提出。エチオピア時代にお世話になった先輩にも会うことが出来て、 そして念願の北海道でのスキーも出来てとても楽しい旅行+婚姻届提出になりました。

博士論文審査会は、未だに嫌な思い出しかない。 僕の博士論文の質もそれほど高くなく、プレゼンの仕方も悪かったんだろうけども、延々とどうでもいい観点から突っ込みを受けまくった気がする。 「自分たちの分野こそが物理だ」的な発想に固執して新しい発想を理解しようとしないのは無為だなぁ、ともうプレゼン中からひしひしと感じたけど、 それを身を持って学べたのが、博士論文に関する唯一ポジティブな感想であった。
ま、上記は愚痴と紙一重だが、審査員はせめて博士論文は読んで理解してから審査会に参加してほしいものだ。 審査員が五人いて二人しかまともに読んでいないなんて、意味あるの? (そして、そうであろう状況を予期してその人たちが理解しやすそうな部分のプレゼンを多めにしたら的外れに突っ込みまくるし、ほんと、性質が悪い人たちだった。←愚痴)

ドイツ・ハノーファー大学でのポスドクは、日本の量子情報のレベルの低さをひしひしと感じる経験になっている(量子情報だけじゃないという噂もあるが)。 現状、いい結果はまだ出ていないけれど、物理に関しても研究方法に関しても多くのことを学びまくっているので、 今後の結果に繋がるのを待つばかり(とポジティブに書いておこう)。
実際のところ日本の学生が特別劣っている訳ではない(むしろ計算力とか基礎力では世界標準よりかは優れていると思う)と思うので、 日本の大学(もしくは大学院)で教育を受けることが学生にとってどれだけ損になっているのだろうか。
こういう話は全て結果論なのであんまり決定的なことは言えないけれど、少なくとも世界の大学(大学院)を選択肢に入れる学生が少ない現状は 実りあるものではないと思う。

八月の結婚式は、とにかくどたばた感が半端なかった。これから結婚される皆さま、準備は滞りなく万端にしておきましょう。
これまで出逢ってきた多くの方々に祝っていただき、とてもありがたかったです。「身内だけでこじんまりと」っていうのが僕の第一希望だったが、 終わってみると今までの半生を振り返るという意味でも盛大にお披露目してよかったと思っています。
そうして、少しずつ覚悟を増やしていくのが、結婚という過程なんだろうな、と。今はまだ別居しているので覚悟があんまり増えませんが、これから 頑張ります。


ということで、早くも2013年が終わります。 変化を感じつつ、それを僕らしく成長の糧に出来ているという実感がひしひしと湧く一年でありました。

これをどれ程の結果に繋げられるか、来年はその点に注目ですね。
結果が出なくてへこむこともあったけど、よくよく考えたら日本にいた時の閉塞感や憂鬱感は全くないので、きっと来年は何か出来るはずです。 そう思いつつ、八年ぶりのネパールに行ってきます。

それではみなさん、よいお年を。

12/17(Tue.)

研究室のクリスマスパーティー。
あるポスドクが「しゃぶしゃぶを食べたい」と言ったので、ちょっとだけ頑張ってしゃぶしゃぶを作った。 昆布を手に入れるのだけが核心。

「ドイツ人はあんまり日本食を好まない(見たことない食べ物を嫌う)」と様々なところで聞いていたので、どうなるかなぁ?と思っていたが、 とても好評だった。一安心だったけど、驚いたのはこっちのやつら、全然野菜食べねー。「野菜も美味しいから食べてね」って言ったけど、 みんな延々と肉を食っていた。これで健康を維持できるなら、日本で言う「野菜を食べないと不健康」ってのはどうなるんだろうな、なんて思ってしまった。

今の研究室では誰かが「これ、君がやってくれない?」と依頼してくることはなくて、こういうイベントは全て誰かが自発的にやり始める。 僕は面倒臭がりなので自発的にイベントなどを始めるのには奥手なんだけど、まぁ今回は自ら手を挙げてやった甲斐はあったかな。
どっちがいいとかではないけど、ここでは「みんなでやろうよ」的な雰囲気は一切ないので、それはそれで新鮮。 やっぱり基本的な「文化」が違うんだなぁと感じる。

研究に関しても「俺がやりたいからやっているけど、あなたには無理強いは一切しませんよ」的な傾向は強い。 日本に比べると、もっと明確にスタンドアローンだと思う。その中でいい研究をする人たちは、きちんとスタンドアローン・コンプレックスを形成している、と。
そういう価値観にアジャストするために要した九か月だったと、そう思えばちょっとは成長しているのかな。 まぁそれだけにとどまらず、研究内容においても成長はしていると思う。ただ今のところ結果がついてきていないだけで。我慢の時ってことでしょうね。

ということで、午前三時までのクリスマスパーティー。

12/14(Sat.)

日本人会で知り合った友人たちとツェレのクリスマスマーケットへ。 ドイツはクリスマスマーケットが美しくて、12月は町が華やかになる。ハノーファーだとちょっと人手が多すぎて大変なんだけど、 ツェレは小さい街なので人でも少なく、楽しめた。

クリスマスが近づく雰囲気と共に、2013年ももうすぐ終わるんだなぁとしみじみ感じる。 2013年は贔屓目に見ても成功した一年ではなかったと思うけど、日本にいた頃に比べると閉塞感なく暮らせていて、海外に来た甲斐はあったと思う。

しかし、日本の異常なまでの閉塞感はなんなんだろうなぁ。 「一体感」と言えば言葉はよく聞こえるが、平常時の一体感が生み出す負の社会的プレッシャーは、本当に恐ろしいものがある、と個人的には 強く感じた一年であった。


そういえば、「学校の英語教育強化、何のため?」と題したニュースを読んだのだが、 日本政府の強化方針もさることながら、この記事も相当笑える物であった。 英語を生活の中で使用した経験がない人が書いたんだろうなぁ、と思ってしまった(真実は分からないけど)。

幾つか取り出してみると、「中学校の英語の授業を英語で実施すること」はいい試みだと思う(もちろん、初めの数年は日本語で教えればいいと思うけど)。 というか、「英語の授業を英語でしない」というのは、よくよく考えると意味が分からないことで、何故今まで、英語を日本語で教えていたのかが僕にとっては かなり大きな謎だ。日本語で習った方が英語の文法はよく理解できるだろうけど、英語授業の目標が英文法マニアを作成することではないだろうし、 喋る前に文法を詰め込むのは(英語を話すという観点からは)無意味だと思う。
ちなみに、ドイツで語学学校に行くと、初めからその言語で先生が話すらしい。厳しいけど、ついていけばある程度は喋れるようになるみたい。

次に「高校では授業内容が高度化」ってのは、ギャグとしか思えない。 どうやってこれ以上、高度化するんだろう?そもそも、「英語の高度化」ってなんですか?例えば、英語の古典を読んだりってことですか? いやいや、そこで更に「話す」路線から脱却してどないする。
僕は、ある程度英語で会話が出来るようになったら、「自分の意見を英語で述べる能力」を培うべきだと思う。まぁこれは日本語でもいいんだけど。 これはあくまで私見だが、一般論として日本人は「自分の意見を曖昧さなしに述べる力」が圧倒的に弱い気がする。 その原因としては、社会的雰囲気もあるし、それ以上に、そんな経験を小中高と全くしない点が大きいと思う。
英語に限って言えば、「英語で説得力のある話し方」というのは「日本語で説得力のある話し方」とはかなり異なるので、 もし英語がある程度話せるようになって、それ以上の英語教育を望むのであれば、「英語での説得力を付ける」というのがいいと思う。

そして、「出張など仕事で英語が必要となった場合、2000時間を超えると多くの人が自由に会話ができるようになる」などに至っては (あくまで通説を紹介しているだけの体を取っているので、筆者がこの意見にどれほど賛成してるかは分からないものの)、 言葉の乱用もいい加減にしてほしい、と思う限りである。そもそも「自由に会話できる」って、どのレベルで言ってるんですか?
仮に、「不足なく意志伝達が出来るレベル」だとするなら、2000時間も英語に触れなくても、やる気としかるべき方法を取れば余裕で達成できると思う。 逆に、「英語で意識せず日常会話に溶け込めるレベル」だとすれば、もう時間の問題じゃない。 言い回しを覚えたり、英語のテレビを見て流行の話題をチェックしたりと、「時間ではない」努力が必要。
この文章に続けて、「1年近く外国にいれば、たいていの人は英語が出来るようになっている」と書かれているが、 (標準的な日本人が)1年外国に住んで(かなりの努力はしないで)達成できる程度の英語でいいなら、多分、英語の授業を英語化して、 テレビの1チャンネルをずっと英語放送とかにすれば、かなりの人は達成できると思う。

という、あまり現実にそぐわない「英語!2000時間!」を元に「授業時間数を増やしても、2000時間には届かないからあんまり意味がない」と論を展開しているのは、 前提が間違っていると僕は思うので不毛。この筆者には英語を使う実体験がなかったんだろうなぁ、という感じ。

結局、日本政府の新しい方針も(一部評価するけど)意味不明ながら、それを批判する側も現実とは異なる理念を元に、意味不明な論を展開している。 これを迷走と言わずして、何を迷走と言うべきか。不毛だ、ほんと。
でも、これが日本の「英会話」に関する現状なのかなぁ?もしそうなら、日本人が英語を不得意なのは自明の理だ。 舵取りする人(政府)も、その舵取りを見張る人(メディアや専門家など)も、全く明後日の方向を向いているんだから。

と、一つの文章だけ読んで、ちょっと風呂敷を広げ過ぎた感はあるな、適宜差っ引いて読んでください。

あと、一番笑ったのは、最後の「何のために英語学習を強化するのかという、根本的な議論がもっと必要なのかもしれません。」って文章。 それを言っちゃ、「何のために学校で高等教育するのかという、根本的議論」が必要になってくるんじゃないでしょうか?不毛すぎる。。。。
そもそも、日本国政府および経済界は「国際的競争力を持つ人間」を育てようとしているんだから、それを認めれば「英語学習の強化」は必要。 もしそれを認めないという意味で「根本的議論が必要」と言っているのであれば、それはそれで近年の日本の価値観(世界で認められて、さらにはリードする。また、経済成長を続ける)に一石を投じる野心的な文章という意味で評価するけども。


そうそう、そういえば、ドイツはその「教育に対する根本的議論」の結果、小学校低学年から電卓を使うことになって久しいらしい。 その結果、少なくとも数学に関する学力低下は著しいようで、エチオピアで聞いたような「まさかの計算」をよく耳にする。 電卓を使う方が、エンジニアリングには重要との判断だそうだが、その結果として論理的思考力が落ちることは免れないので、 他人事ながら、ドイツの行く末が本当に心配である。

研究室の同僚に「ドイツの将来大丈夫?」と聞いたら、全員が「いやー、やばい」って言っているのを聞くと、 何だかこっちが不安になってしまうのである。

ということで、僕個人的には「教育はなぜ必要か」という根本議論を社会を巻き込んでやるのは、止めた方がいいと思うのである。 藪蛇だし、そして、そういう議論になったら「抽象数学は社会に出て使わないんだから、教えなくていい」という意見が世論の大半を占めるに違いないから。
高校数学程度の「アルゴリズム」を理解する頭は、社会に出ても十分使っていると思うんだけどな。

まぁ、もちろん逆の意見を持つ人もいるだろうし、突き詰めれば社会実験をするしかないので、教育改革というのはかくも難しい。


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