E veryday- D iary

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2/28
あれだ、花粉症だ。

大学に来たらくしゃみ連発雨あられ。
東京なんて嫌いだー。

久しぶりに、乗り切った感満点な一日。
ホントに、明日から一週間休日くださいレベルで疲れた。


家に帰り着いた自分に、本当にお疲れ様を言いたい。
明日は絶対に大学行かないことに決めた。

てか、そろそろ僕も本気で花粉症重症になりつつあるのだろうか?
いや、きっと、体調不良が重なってるんだ!


ネット上に転がっているMP3ファイルを専門に検索するサイトがある。
僕は著作権を積極的に破れというつもりはないし、破ったほうがいいとも思わない。
しかし、ネット社会が構築されてしまった以上、本気で著作権を守りたいなら各国が共同して行動を起こすべきだとは思う。
そういう、地球規模での法整備を行なわない限り、著作権はなぁなぁなままで破られ続けていくだろう。


HONDAの今年のF1

新しいコンセプトの概要は、大きく4つからなる。第1は「新しいマシンカラーリングの採用」。マシンへのスポンサーロゴの露出を廃止し、環境問題に直面する地球をイメージしたカラーリングで、衛星写真をモチーフとした海の青と大地の緑がHondaの新車『RA107』の全面に描かれている。レギュレーションで定められているノーズへのマニュファクチャラーロゴ(Hマーク)と、全チームにタイヤ供給を行なうブリヂストンロゴ、チャリティーを募る「myearthdream.com」のアドレスのみマシンに施される。

第2はパートナー企業に対し、マシン及びロゴの使用をライセンス化することで、マーケティングツールとしての活用を可能とした「イメージのライセンス化」。

第3は「協賛金の寄付」で、協賛金(スポンサーフィーやライセンスフィー)の一部を、環境保護団体などへ寄付を行なう。

第4は「ウェブサイト上でのチャリティー展開」。新たに設けるウェブサイト(www.myearthdream.com)上で、一般の人々がマシンのピクセルを購入することでチャリティーに参加できる。

なんていうかね、HONDAのそういうところ、嫌い。
環境問題とF1を結びつける必然性があるわけ?
「F1が環境によくないという事実を何とかしたい」かつ「F1を続けたい」のであれば、その分、F1以外のところで環境に配慮しまくればいいわけじゃない?
なしてあえて、F1でそれを強調する?
「協賛金の一部を環境保護団体などへ寄付を行なう」とか、実際に考えて、自動車が環境問題の中でもかなり大きな部分を占めているわけだから、寄付する前に自社で新技術を開発すれば いいんじゃないの?
「一般の人々がマシンのピクセルを購入することで・・・」ってさ、あほか?
「一般の人」が本当に環境のことを考えているのであれば、それこそ環境保護団体に寄付するやろ。
結局、そのチャリティーは、「俺は環境に配慮してるんだー」的自己満足を伴ったHONDAの応援にしかならない。
myearthdreamじゃなくて、iloveHONDAとかでいいんじゃないの?

まぁ、つまり、僕は、HONDAの、そうやって無理矢理にでも「私達は業界をリードしてるんですよ」的な雰囲気を作り出すところが嫌い。
僕はTOYOTAが一番嫌いだが、かなり結果が伴っているから、まぁ、認めざるを得ない。
それに比べて・・・、HONDAに、本気で環境のことを考えているならプリウスHONDA ver.でも作れば?と言いたい。
HONDAが本気になれば、作れんこともあるまい。
結局、HONDAが何を吠えても、実力とやってることがついてきてないから、嫌い。

ま、HONDAとHONDA F1チームを一括りにして話をするのはよろしくはないけど。
そして、多分、そういう見せ掛けチックなことは往々にして世間を風靡するから、まぁ、意味が無いわけではないんだろうけど。
でも、嫌い。


2/27
軽く風邪なのか、花粉症なのか。

しんどかったので、早めに帰宅して休養。
しまった、今日、あんまりすすんでねぇ。


2/26
東京大学入試二日目なのね。
受験生を見てると面白い、な。

繰り込んでみようか。


2/25
「ジェノサイドの丘」読了。
「生かされて」を手に取ったのは完璧に偶然で、単に興味本位だったのだが、この本を読み始めてすぐに「これはやばい」と思って、急遽、図書館で ジェノサイドの丘(上・下)を借りたのであった。

「生かされて」は虐殺を生き残った人の主観的話だったが、「ジェノサイドの丘」はアメリカ人記者がジェノサイド直後から三年間、取材を重ねて書いたルポ。
国際的背景も分かって非常によい。

平均して毎分五人づつ殺されるという未曾有の大虐殺が百日間続く中、国連は現地からの報告を無視し、アメリカは国連軍派遣にけちをつけ、 フランスは虐殺側を支援し武器を送る。
解放軍がルワンダを制圧し大虐殺が終わったあとも、人道支援団体は難民キャンプを根城として殺害を続ける虐殺者たちを見て見ぬふりをし、そして、国際的に支援された食料は 虐殺者の手に渡り、それを売ることで金を作る。
解放軍側が、難民キャンプを解散して国民を元の生活に戻せ、と要求しても、幾つかの人道支援団体はそれを聞き入れず、 難民キャンプ内での虐殺者コミュニティは大きくなり、虐殺者コミュニティに属さない難民(とはいえ、そのような人々も大虐殺の最中には隣人を殺していた)は あたかも人質のようになっていく。
国際社会は新政府に「虐殺者側と対話しろ」と迫り、「虐殺者は犯罪者ではない」かのような態度をとり続ける。

全部が全部、地獄だ。
こういったページでコメントするのがはばかられる。
というか、まだ、自分の中でコメントできるほど頭がまとまってない。
だから、ノーコメントで。

僕は、自分の利害に関係ない人を救いたいと思うほど人道主義者ではないけど、たかが十二年前に行なわれた、おそらく人類史上最大規模の大虐殺の ことを無視するほど、国際社会に無関心でもない。
そして、おそらく、多くの日本人はそうなのではないか、と思う。
だから、僕たちはルワンダ大虐殺について知り、そして、喩え偽善といわれようとも、そこから何かを学び取ろうとすべきだと思う。
今までルワンダ大虐殺について知らなかった人は、これを機に、是非。

最後に、なぜ、僕が小学校五年生の時にルワンダ大虐殺を知らなかったのか。
日本ではほとんど報道が行なわれなかったようだ。
せいぜい、「PKO職員が十数人殺された」という程度の記事が小さく載るだけで、「百万人近くのツチ族関係者たちが死んだ」ことに関しての報道は、当時 なかったらしい。
たしかに、ルワンダといえばアフリカの小さい国だ。
しかし、大虐殺が起こっているにも関わらず、ニュースにもならなかったということがあってもいいのだろうか。


2/24
映画「グアンタナモ」を見てきた。
アメリカがアフガンを攻めた時に、偶然アフガンを旅行したパキスタン系イギリス人四人。
一人は爆撃で死に、残りの三人はアメリカ軍の捕虜になり、タリバン兵士と勘違いされて拷問を受ける。
で、悪名高い収容所 グアンタナモに収容される、という物語。
ノンフィクションね。

まぁ、グアンタナモは、今のご時世とても問題のある収容所だということに関して異論はないが、映画の感想は次の一言で十分。
戦争中にアフガン行くなよ!お前ら!
いや、彼らも初めはムスリムボランティアのつもりで行ったのが、色々と間違いがあってそうなったみたいだけど・・・・。
でも、さすがにね、タイミングを間違えすぎていると思う。


東京国際フォーラムの内部を見学して帰宅。
あれね、ここって相田みつを美術館があるところだったのね。
以前来たときには東京国際フォーラムが建築物としてとても有名であることを知らなかった。
うむ、確かになかなか凄い建物だ。

って、僕は建築の知識は何もないので、ただ単にそう思っただけだけど。


久しぶりにゆっくりした休養日。

映画、建築物に続いて、 「生かされて」を読了。
ルワンダ大虐殺を生き延びた女性の体験談。
敬虔なカトリック信者なので、まぁ、そういった類の「偶然を神と呼ぶ」的神を信じない僕にとっては割と気持ち悪い表現が多かったが、それを 抜きにしても読む価値はある。
てかね、さすがにそういう経験をしたら神に祈りたくもなるかもしれない。

ルワンダ大虐殺。
1994年、たかが十二年前に起こったことなのに、僕は言葉しか知らなかった。

さすが、国連が「ジェノサイド罪」を適用しただけあって、本当にやばい。
(ちなみに、国連の定義による「ジェノサイド」はほとんど例がなく、ホロコーストなどが数少ない例)

一緒に遊んでいた友達が、ある日を境に、突然、山刀を持ってツチ族の人々を手当たり次第殺していく、という虐殺。
「生き残った方が奇蹟」になるレベルに殺しまくる。
しかもね、レイプしてから殺すのは当然だし、母親がレイプされるのを見せてから子供の手足を"叩き切って"道端に放置、犬に食い殺させたりってのもあったらしい。
諸説あれど、百万人前後のツチ族の人々がおよそ百日の期間で殺され、虐殺が終わった一年後でも、まだ道端に放置されるままの死体があったようだ。

ちょっとね、信じられない。
色々、映画とかドラマとかで酷さを売りにしたものはあるけど、桁違いのことが実際に十年前に行なわれていた。
ぶっちゃけ、どれだけ想像力を豊かにしても、例えば僕の友達たちが
「中田を探し出せ、中田を殺すんだ!俺はこれまでに三百九十九人のゴキブリどもを殺したんだ。 中田で四百人目だ。なんて良い数字なんだ!中田を探し出せ!中田を殺すときがやってきた!」
と叫びながら、僕の姿を求めて道をうろつき回りあやしい家の隅々まで捜索する光景は、想像できない。
人間、さすがにそんなこと出来ないだろう、と思うのだが、しかし、それは、僕が甘ちゃんだからだろう。
実際に、そういう言葉を叫びながら実行した人たちがいるんだから。

「性善説」「性悪説」という言葉はあるけど、この本を読んで、 「人間は必要に応じれば何だってするし、というか、必要に応じて「善」と「悪」は入れ替わる。」 という当たり前のことをまざまざと感じてしまった。
それは誰だって認識している当然の事実なんだけど、何となく「性善説」を信じたくなるのが人情というもので。
しかしながら、あれだ、この本読んで、人を「性善」か「性悪」で分けようとする議論がどれほど馬鹿げているかということを思い知らされた。

ルワンダ、これからどうなるんだろう。
殺戮を生き延びた人と殺戮した人が、本当に一つの国で生きていくことが出来るのだろうか?
(まぁ、殺戮側の民族は大虐殺が終わると同時に隣国に逃げ出して難民になったようだけど)

というか、あれだ、1994年っていったら、俺、小学校五年生でしょ?なんで今までルワンダ大虐殺のことを知らなかったんだろう?
自分が如何に世界に無関心だったか、ということを思い知らされるとともに、日本の教育もおかしいのでは?と思った。
別にその虐殺を知ったからといって僕の行動が影響されることはなかっただろうけど、やっぱり、「教育が行き届いた先進国」として そういうことは教育しておかないとまずくない?
中学とか高校で、なんでそういうことを教えないのかな?
まぁ、小学校や中学で教えるのは、道徳上問題がある気がしないでもないが、高校で「倫理」とかやるなら、教えるべきじゃない?
多分、「倫理」という言葉の本質を考えるのに最も手っ取り早い事象だと思うんだけど。

まぁ、「世界の酸いも甘いもあらゆることを知りたい」とかいう大層な目標を掲げていながら、 大学に入って自立した勉強が始まって以降、今日までそのことを知らなかった僕はダメダメなんだけど。

さらりと読める本ではないけど、気が向いたら読んでみるのもいいかもしれません。
「人類の歴史は血塗られた歴史」っていう謳い文句はよく耳にするけど、それをパクって言えば 「人類の歴史は血塗られた歴史、現在進行形で」


2/23
ある目論見で始めた計算を一時中断。
うまくいけば相当いい線いってると思ったんだが、うまくいかないものだ。

しかし、まぁなんていうか、そういう方針は楽しいか。


2/22
春の陽気の中でサッカー。
本当に、もう春が訪れたとしか思えない。

四月末に富士山滑降を予定していたが、これ、出来ないんじゃない?


昼飯は山本研の方々とノンベリと。
僕は今週はそれほどアップアップしてないが、あれだけのんびりと飯を食っていてよかったんだろうか?
特にお一方は、予定的には死にかけている感があったと思うのだが。


地球温暖化の煽りを食らって世界で一番早く沈む国、ツバル。
その首相の言葉。

自分たちが排出した温室効果ガスが原因で、ツバルなど小国で何が起きているのかを認識し、責任ある行動を取ってほしい。いつになれば小国の声に耳を貸してくれるのか

主にアメリカやオーストラリアを対象とした言葉だが、日本にとっても耳が痛かろう。

しかし、時々思うのだが、小学校の教育ってなんなんだろうな?
大人になれば誰も守らないことを、真面目に教えている。
「人に迷惑をかけないこと」「強者は弱者のことを考えてあげること」ってのは一番初めにならったと思うんだけどなー。
ま、それが大人の都合だ、というならそれはそれでありだと思うけど、それだったら、小学校でもその「都合」なるものを教えればいいのに。

あ、あと、「人が前で喋っている時は静かにすること」とかってのも、大人はほとんど守ってないよね。
パーティーの乾杯の音頭の時とかに静かにならないのとか、僕的にはほんとにムカつく。
もちろん、ざわつくことでパーティーが盛り上がるのなら是非ともざわつくべきだけど、基本的に、そういうのって 「自分達だけが楽しければいいや」的に勝手にざわついているだけだから、場は冷めまくるよね。

そんな感じの小学校教育に対するありきたりな疑問は、残念ながら、僕の中でもいつまでたってもありきたりな疑問のままだ。
だって、僕も「大人の都合」ってメッチャ必要だと思うし。
しかし、少なくとも僕が何かを人に教えるときには、「人に迷惑をかけたらだめだ」とか「ルールは絶対に守らないといけない」とか、 そういうことは絶対に言わない。
自分がそう思ってないし、そんなことが正しいことだとも思えないから、口が裂けても言えないでしょう。

教育者の方々も、その程度の純粋さは持っていてもいいのに、と思う。
まぁ、あれだと思うんだけどな、教育者が子供から学ぶことも多かろう。
そういう態度も、少しは必要だと思うね。
子供だって、使い古された頑固親父のはげ頭よりかは断然頭いいんだし、結構、大人が何気なく言った一言で色々感じてるんだから。
子供って、結局、コミュニケーション能力がないから、うまく自分を表現できていないだけだよね。
中身は、小学校も高学年になれば、しっかりしてる。少なくとも俺は、してた。

何となくそう思ったり。
さ、べんきょしよ。


2/21
なんだっけか?
普通に適当にぐだらぐだら。


2/20
ゆるりと計算、論文読みなど。
集中し始めは時間がかかる。


二年間、大学を離れるだろうということを友人に話したら、「それは羨ましいねぇ。楽しそうだ。」という人が 多かったりする。
ちょっと予想外れの現象なので驚いているが、
可能性その一、僕の友達がそんなのばっかり、類は友を呼ぶ。
可能性その二、実は割と多くの院生が物理以上の楽しいことを欲している。
可能性その三、お世辞。

まぁ、一と二が半々?
そもそも、東大で物理やってる人は、「物理が楽しいからやっている」という理由がメインな人が多い気もするし。
ま、もしそうだとしたら、もしも物理以上に楽しいことがあったらそっちに行くわな、こんな生存確率激低の分野よりも。
だって、日々苦悶の連続だし、人の輪は特定分野でしか広がらんし、多少の業績上げても将来の道は全く拓けんし、実験系だと生活リズムぼろぼろになるし。
う〜む、つらつらと書き出してみると、何故、みんな物理をやってるのか、不思議になってくる。
え?オレ?
俺は物理が好きだから。


2/19
朝、レンタカーを返しに行く途中で、スピード違反で捕まった。
まぁね、制限速度40km/hのところを60km/hで走ってたから、捕まるわな。
まぁでもね、前後の車も全部同じ速度で走ってたけどね。

というか、スピード違反で捕まって免停にならなかったのはありがたい。
僕がスピード違反を犯す場合、普通に50km/h近くは軽くオーバーしてることが多いから。

ただ、反則金一万五千円・・・・・スキー一回分がとんだ。
しかし、スキーをとばしたくはないので、自炊にせいを出すこと決意した。


2/18
NIPPON FREESKIING OPEN 2007二日目、スーパーパイプ

やべー、Simon Dumontやばすぎる。
ハーフパイプ(正確にはスーパーパイプ)で、高さ6mぐらいまで飛び上がって、truck driverですよ。
もうすでに、去年と今年のパフォーマンスで、彼のワンヒット目は定番になりつつあるな。
だってかっこいいし。
これの緑のウエアの写真がその瞬間。
生で見たら本気で感動するし、本気で凄い。
二本目は1440回そうとして失敗してたけど、1st runの1260→アーリー900→900だけで十分にやばい。

John Symmsも高さが尋常じゃなかった。
初めから最後まで、6m級のジャンプを繰り返す男。
残念ながら4位だったけど、高さだけだったら1位だね。

彼らの目にはどんな世界が見えているんだろう。
嬉しくて嬉しくて。


総括的感想。
めちゃくちゃ嬉しい。
ただ単に嬉しい。

世界トップのレベルってここまで凄いんだ!って思って、それだけでメチャクチャ嬉しかった。

俺がそれを出来ないのは当然として、それどころか「なぜそれが出来るのか?」とか「どうやったらそれが出来るようになるのか?」とか、全てが理解不能だった。
奴らの中では、角運動量保存則は存在してないし、重力も存在してないとしか思えない。
それくらい理解不能、本気で。
「出来る出来ない」レベル以前の問題で、「頭の中ででも出来ない。
理論的に考えても、なんでできるのか、よく分からん」レベル。
奴ら、まじすげー、頭いかれてる。。。。ってか、やつらは絶対に人間じゃないね、断言できる。

そんな、全てが理解不能な出来事に出会えるのって、心の底から嬉しい。
やべー、この世界、くそ面白い!
だから、観戦しながら嬉しくて嬉しくて。

世界のトップレベルはこれくらいぶっ飛んでないと、この世界、生きてて面白くないって。
凡人の俺なんかには想像もつかないし、というか、なぜそういうことが出来るか?という道筋の想像すらたてられない。
そんな世界。
まだまだまだまだ、俺の知らない(どころか、想像すらつかない)ことなんて世界には色々転がっていて、そして、俺が思いもよらないほど、人間の潜在能力って凄いんだ!って思い知って、本気で嬉しかったし本気で駆り立てられた。
これだから、この世界には生き甲斐があるってもんだ。

そして、凡人と超一流の間には、想像力から身体能力から努力から、全ての点においてこれほどまでに差があるってことを思い知って、 だからこそ、挑み甲斐があるってもんだ。

想像力とか能力とか努力とか、あらゆる意味で、世界と比較して自分の矮小さを思い知って、本気で心の底から嬉しいし、本気で挑み甲斐があると思うし、本気で色々と駆り立てられる。
ぬるま湯にどっぷりつかって生きてる俺が言うのもなんだけど、人生、もっとプッシュしていかないと面白くない!人間の限界は、まだまだまだまだ全然先だ。
世界は時果てるまでどこまでも広いし、俺は人間の限界すら、何も知らない。
この世界、すげー、人間、すげー
おし、やるぞ、俺!

とか言っても、もちろん、俺はスキーの道を歩むわけではなく。
俺は(十中八九)物理の道を歩むわけで。
だから、何が言いたいかというと、あれなんだね、物理の超一流も、それくらいずば抜けてぶっ飛んでないとダメだ。

俺が物理で超一流になれるなんて全く思ってないけど、でも、(もしも研究者として生き残れるのであれば)世界一流付近レベルで活躍しているはずだ。
(そうじゃないと淘汰されちゃうからね、この世界は)
そして、そのレベルで活躍するのであれば、今回見たスキーヤーみたいに、あらゆる意味で凡人とはかけ離れてぶっ飛んでないといけない。
誰でも思いつくようなことを、適当に計算して適当に業績上げて生き残ってきました、みたいな、そんなのはだめだ。
どうせやるなら、アインシュタインとかランダウとか、それくらいの独創的かつぶっ飛んでる何かを目指してやらないと。
そうじゃないと、「生きるためにやってる」だけになってしまって、「好きだからやってる」わけではなくなってしまう。

やっぱ、「好きでやってる」なら、本当にスタイリッシュな仕事を目指さないと。
後進の人たちが見て「こいつやばい、&ぶっ飛んでる!これが世界の論文誌に載る研究ってもんか!」って思って、「だからこそ挑み甲斐がある!」と思えるような、そんな仕事をしないと。
生きるための仕事ってのはもちろん必要なんだけど、俺はいつか、絶対に、俺のスタイルを全面に押し出した挑み甲斐のある仕事をしてやる。
名誉欲とか、そういうのじゃなくて、俺が物理好きだから。
生きるための道具だけで、物理を終わらしてたまるか。

いや、物理だけじゃないな。
俺にとって物理って、あくまで「大好きだけど、単なる手段」にしかすぎないから。
とにかく、俺が携わっていくであろう全てのことにおいてスタイルを全面に押し出して、(もしも俺がそれを本気でやるのであれば)今回のスキーヤー達みたいに他人をmotivateするくらいの何かを残していかないと。
うむ、人生、時間足りない!早送り!

そんな感じで、上に書いたようなことが、観戦中に次々と思い浮かんできて、嬉しくて嬉しくて、色々感じられて。
まじ、嬉しかった。
世界のトップって、こんなに遠いんだって。
嬉しいわ、本気で。
世界って、こんなに俺の知らないことだらけなんだって。
やってられん、嬉しいわ、感動。

うん、やるしかないっしょ、プッシュプッシュ!


2/17
NIPPON FREESKIING OPEN 2007一日目

世界のトップライダーが集まる、フリースキーイベント。

今日はスロープスタイル。
もうね、朝一の選手の練習から、テンション上がりっぱなし。
世界のトップレベルがこれほどまでに僕から遠いところにあるということを認識して、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
こうじゃないとこの世界、面白くない。

Andreas Hatveitが決勝で1440を回ったと思ったら、2nd runでswitch 1440を回った。
泣きそうなくらい嬉しかった。生で歴史が生まれた瞬間を見れた。
Mike Wilsonがボックスでフレアアウト、僕的にはロデオな気がしたが、よく分からん。
二回目は回転数も上げてフレアアウト、気が狂ってる。
残念ながら、Mikeは決勝で二度とも転倒してしまったけど、二回目は転倒した後にど派手なジャンプを見せてくれた。
進化版Wilson Flip!!!!
今日のコンディションでは絶対に見られないと思っていたので、本気で泣きそうになった。
こいつ、本気でパフォーマーだ!
優勝はCharls Gagnier
Gagnierグラブ凄い。頭イカレテル。
というか、Gagnierとか、ボックステクニックまじでうまいね。

そのほかにも、Simon Dumontの720まで横軸で回るコーク1080とか、めっちゃスタイルあるわ。
John Symmsの720(くらい?)の途中で派手にメソッド入れるのも、めっちゃスタイルある。
こんな感じね
とかいって、これはGagnierなんだけど。

でも、やっぱり一番スタイルを出していたのはMike Wilson。
孤高なフレンドリーパフォーマー。まじかっこいい!

そんな感じで、全てに感動。


2/16 タイピングマシーン。

無事、締め切り数分前に終了。
頑張った、俺。
内容はカスだぞ、俺。


夜、三時間ほど仮眠して、レンタカーでスキー場へ向かう。
よくよく考えたら、一緒に行く二人は一緒にネパールに行った二人であり、去年のこの日はネパールに旅立った 日であった。
気持ち悪いな、この偶然。


2/15
タイピングマシーン。


2/14
延々とレポート打ち。
この日までで、およそ書く内容は決まったので、タイピングマシーンになる。

あ、そうだ、ついでにレポートのためにmathematicaで計算させようと思ったら、メモリーが足らなくて死にまくったんだ。


2/13
先輩の家から二時間以上かけて、出勤。

レポート、ミーティング、帰宅。
やりたいことというか、やれたら有意義で、僕もやりたいことが見えてきた気がする。
博士に入学するのが普通の人よりも二年遅れる可能性が高くなってきたので、この一年で死ぬほどプッシュしていきたい。
あ、就職はしませんが。

趣味と実益と人助けを兼ねてみようかと思っている、二年ほど。
まぁ、まだ最終決定ではないんだけど。


2/12
研究室の先輩の引越しのお手伝い。

車を少しだけ擦ってしまったのは、ご愛嬌ということで。ごめんなさい。
ちなみに、車を破壊したことはあっても、擦ったのは初めて。
凹んだ。


先輩の実家に泊めてもらう。


2/11
refferenceを探すとボロボロと出てくる真実。
cond-matかよ!と思わず突っ込んでしまった。

quant-phな人よりもcond-matの方が、明らかに盛んだ。
しかし、quant-phな人がやるのは理解できるが、cond-matの人は、なぜそうもconcurrenceを計算したがるのか。
理解不能。しかし、PRA程度であればそれで載ってしまうんだから、計算したくもなるか。

predictionが出来るように頑張らないと。


2/10
起きたら十二時前という革新的行為。
昨日の就寝時間は午前三時とはいえ、これは奇蹟に近い。

ホントに一日を無駄にした気持ちになるから嫌だ。


延々とTeX打ち。
今までやったことを来週の金曜までに纏めなければならないのだが、ぶっちゃけ、書くことはほとんどないに等しい。
まぁ、結果が出てたら論文になっているはずだから、当然か。

それでも、明文化の法則の通り、明文化することで陽に意識されることも多く、有意義ではある。
まぁ、根底を貫くものは、己の無能さだから、打ちひしがれ打ちひしがれ。
院生ってそんな時期だ、と信じたい。


久しぶりに、一日中、一言も喋らなかった。
三食全て家で食べたし。


2/9
和達先生の退官最終講義。

個人的に印象に残ったのは、ピーターの法則。
「人は無能なレベルに達するまで出世を続ける」

自分も含めて、成長するに従って無能になっていく馬鹿ばっかり。
社会で生きるということは、つまるところ、あるフォーマットで画一化、均一化され、無能になることか。

無能になっていくのは仕方ないことだけど、まぁ、最低限、節度は守りながら無能になろう。


失言癖が多くて困る。
暫くは、無口な中田君を復活させようと思う。
いや、未だかつてないことを「復活」と呼ぶのは正しくないか。


2/8
木曜日。

適度に論文を読んで、適度に計算して、適度に気を抜いた。
二週間ほど前から張っていた集中力が、遂に切れたらしい。


2/7
水曜日だ。

午前中、数学のレポートを出しに駒場まで。
レポートを出すために、交通費380円。
・・・・・


本郷に戻って、ジャーナルクラブ。
僕が発表する。

手につけられないくらい大炎上。
うむ、愚痴から書くか原因から書くか悩んだけど、まぁ、やっぱり大炎上した原因から書こう。

大炎上した理由は二つある。
1.発表者である僕が、聴衆を全くコントロールできなかった
2.途中から、僕の集中力が完全に失われた

1について。
プレゼンテーションと、ディスカッションは違う。
僕は、多分、その線引きをきちんと認識したことはなかったのだが、今日、それを思い知った。
イントロから、聴衆の皆様の中で議論が渦巻く。
科学者たるもの、一旦、議論モードに入ると、止まらない。
少しでも曖昧なところがあると、突っ込みまくる。
それが、どんなに難しい質問であっても、突っ込みまくる。
おかげで、15分程度で終わるイントロが1時間半にもなってしまった。

プレゼンテーションをする際、プレゼンターは聴衆を完全にコントロールしなければならない。
そういう観点から考えるに、多分、イントロの時点で僕は完璧に間違いを犯してしまったのだろう。
あまりに膨らみすぎた議論は、「何を質問してもいいんだ」という雰囲気を生み出し、そして、イントロ以降の話の中で 証明を書き下す前にどんどん質問が来たりして、もう、何も成り立たない状態になってしまった。
もちろん、悪いのは、プレゼンターである僕だ。
プレゼンターである僕がほとんど場をコントロールしようとしなかったんだから、喩え僕が聴衆であったとしても 納得いくまで全てに突っ込んでしまうだろう。
だから、聴衆に責任は全く無くて、問題は、プレゼンターである僕だ。
せめて、「議論のための時間は最後にとるので、クリティカルな質問がある人は最後に聞いてください」と言うべきであった。
それを怠ったプレゼンターが、全て悪い。

プレゼンターとは、単に発表する人間ではなくて、その場の全てをコントロールする人間のことである。
だから、もしもプレゼンテーションがうまくいかなかったとしたら、それは全てプレゼンターの責任である。
それくらい、プレゼンテーションというのはシビアなものだ。

2について。
これは完全に僕の悪い癖で、疲れてしまうと、すぐさま、僕はどうでもいいや、と思ってしまう。
おかげで、集中力ゼロ、証明を書き下しながら、全く別のことを考えていたりする始末。
だから、証明のステイトメントを書き間違ったりする。
というか、そもそも、「俺は分かってるんだから、もう適当でいいや」という気になってしまう。
もうね、そういう俺、死ね。

1と2への対策について。
そもそも、2は明らかに1からきている。
従って、1を実行できれば、少なくとも僕は今回のようなミスは起こさない。
重要なポイントは、「プレゼンテーションとディスカッションは異なる」ということを骨の髄まで認識させること。
そして、ディスカッションの量を適度に調節すること。
ディスカッションが多すぎても少なすぎても、プレゼンは成功しない。
適度な量でまとめ、そして、本当に議論したいことに関しては、プレゼンが終わった後に時間をとって、すべきだ。

という結論に、ジャーナルクラブの後に反省して気付いた限り。
そういうことに気付けた、という観点では、僕にとって死ぬほど有意義なジャーナルクラブであった。


そして、愚痴。

てかね、俺は苦手な英語でプレゼンしてるわけだよ。
だからさ、多少、不適切な表現を使ったとしても、それくらい、察してくれ。
本当にお願いだから。

多分、ダミアンはそういうのに慣れてるんだろうな。
イントロの中で、ダミアンだけは理解してくれるということが二度。

僕の英語が理解できないとしても、"What do you mean?"とか聞いてくれればいいのに、僕の英語をそのまま受け取って "It's not right, because....."とか言うのはやめて、ホントに。
"because....."の"......"の部分は自分でも分かっているわけで、それを説明するための英語がすらすらと思い浮かんでこないから、 僕が適当と思う英語を使って端的に表現してるわけだ。
それなのに、あえてその部分を突っ込んでくるって、酷くない?

柳沢大臣が叩かれまくっている昨今、その気持ちが心の底からよく分かった。
「確かに、俺の表現は悪かったかもしれないよ。でもさ、それくらい察してくれてもいいんじゃない? もちろん、それを指摘するのは大切だけど、指摘するにしても、ちゃんと俺が言いたい事を理解した上で指摘してくれればいいやん。 俺、英語へたくそなんやから、せめて、俺を理解しようという努力はしくれ」
と。

もちろん、全ては完全に愚痴でしかない。

全ての原因は、僕の英語力、プレゼン能力の低さ、そして、機嫌が悪くなったときの集中力低下の早さ。

ここで、僕が学んだプレゼンの重大要素を二つ。
1.発表者は、プレゼンテーションの全責任を負う。聴衆をコントロール出来ないことですら、発表者の責任
2.「聴衆は完全に無知であり、そして、理解しようとする意思が欠片もない」という前提を置かなければならない。 聴衆の能力を期待するプレゼンは最低である。

どちらも、プレゼンの講義で学んだこと。
しかし、こんなに早く、その意味を心の底から納得する機会に恵まれるとは思わなかった。

何はともあれ、精進しないと。
英語も、そして、プレゼンのスキルも。
畜生、俺って、本当に死ぬほど矮小だ。


ところで、全く決定ではないけど、博士課程の一年目と二年目を休学して、海外ボランティアとして働くという選択肢が出てきた。

どういうことか?と不思議に思った人は、2月5日の日記を見てみれば一目瞭然。
やりたいことは一緒だけど、方法論を替える可能性はある。

ただ、方法論を替えるべきかどうか、今の僕には判断がつかないから、博士課程の一年目と二年目にボランティアとして働いて、 そして、その後、博士課程を経て、最終決断を下そうという意思。
もちろん、まだ分からないけど。

二つ以上、方法論が見つかったのであれば、若いうちに両方、試すべきである。


2/6
火曜日だ。
何したっけ?

あぁ、そうだ。
ボスに、将来の選択肢を色々と聞いた。
思ったよりかは悲観的で、話した後に少しテンションが下がったが、よくよく考えてみたら、僕の人生にとっては全く余裕な気がしてきた。

研究の話も、とりあえず僕の中ではひと段落。
QPTとentanglementの関係は、なかなか非常に難しいと言わざるを得ない気がします。
もちろん、それは僕の意見であって、本当にどうなのかは分かりませんが。

というか、あれだな、よくもあんな英語で通じたもんだ。


2/5
月曜日だ。


朝、ふとした瞬間に気付いた。

今まで何度も主張してきたとおり、僕は色んなことを知りたい。
世界の全てを見てやりたい。
だから、色んなことを僕に見せてくれるモノが好きだ。
今まではそれが物理だった。

勿論、なんだって僕に新しい何かを見せてくれるんだけど、物理以上に新しい何かを見せてくれるものを、僕は知らなかった。
山も海も、釣りもスキーも、新しい世界を常に提供し続けてくれたけど、そして、僕の世界を広げ続けてくれたけど、具体的に地に付いた 素晴らしい世界を見せてくれ続けてくれたのは、物理だった。
少なくとも今までは。

でも、あれだ、人の喜びや人の悲しみは、時として物理を遥かに凌駕して、新しい何かを教えてくれる。
そんなことに、今日、気付いた。
「人を助けたい」という思い、「人と何かを分かち合いたい」という思い、そんなありふれた言葉で形容される、ありふれていない感情。
言葉では到底表わせない、多分、人間にしか感じられない何か、定義できない何か。
そんな、意味不明で、でも何故だか感じてしまう何かを、人は、僕に与えてくれる。
今の僕は、そんな何かを感じられる人間になった。

きっかけは、どう考えても大学三年の後半のあれだ。
あの時に蒔かれた種は、多くの友達たちの手を借り、ネパールやインドで十分な栄養を得て、そして、今日、遂に芽を出した。
今日、初めて、僕の生き方にとって、「人」というのが「物理」に匹敵する手段になり得ることを、認識した。

一番の根元はずっと一緒。
小さい頃に感じたあの感情、「何でこの世界は、こんなんなんだろう?」、寝ぼけた頭で思った、その疑問。
その瞬間に蒔かれた種は「世界の全てを見たい」という思いに繋がり「物理」へと洗練された。
だからこそ、僕にとって、物理は天職だった。

でも、今は違うのかもしれない。
選択肢は、二つだ。

さぁ、そこで、僕はどう行動するのか。


午前中は数学。
午後はセミナー。
夕方は物理。
夜は数学。

うむ、仕事もレポートも、割とはかどった。
結果はnegativeだが、すっぱりと出てくれるのはありがたい。


2/4
午前中は計算。
午後から映画「不都合な真実」を見に行く。

アメリカの政治家ゴアは長年、地球温暖化問題に興味を持っており、活動している。
アメリカが批准していない京都議定書の批准にも奔走し、狂っているとか急進的とか揶揄された政治家である。
別にゴアを持ち上げるわけではないけど、それくらい温暖化に真正面から取り組んでいる政治家であり、この映画は、 彼がここ数年で千回以上行なってきた温暖化のセミナーを基にしたドキュメンタリー。

ぶっちゃけ、僕は知っていることばっかりだったけど、見せ方が抜群に巧いし、生の写真や生のデータが、ベストタイミングで 入り込むので、とても心に染み込んでくる。
地球温暖化は、もう抜きさしなりません。

皆さんもぜひ。


六本木ヒルズで見たんだけど、またもや六本木ヒルズ自体は楽しまず。

映画が終わってから少し友達と駄弁って、大学へ。
数学のレポートをほぼ完成させる。

夜帰宅して、十一時過ぎから飯。
うむ、体に悪い。


2/3
午前六時に起きて、昼過ぎまで研究室で計算等。

昼下りに帰宅。
勢いで買ってしまったプラネテスを読んでみた。
初めて読んだ時とは、また違った感情が湧き起こって感慨深い。

というか、あれだ、それが成長ってやつだ。
というか、あれだ、初めて読んだあのときから、色んなことが起こって、僕の価値観は派手に変わったんだ。
根本は一緒だけど、方法論が変わった。
そのことに気付きつつあった土曜日。


2/2
やべ、サボりすぎた。

あぁ、そうか、金曜日だ。

修士論文、博士論文お疲れ様飲み会。
普段、あんまり喋らない人といっぱい喋って楽しい。

夜は研究室にお泊り。
何故だかめっちゃ凹んだ夜だったが、そういう時は感情を押し殺すのがベスト。


2/1
計算してたら、先輩から「何やってるんですか?」と聞かれて、色々説明したら、割と痛い所をぼろくそに突かれてしまった。
凹みたくなるところだが、凹んで何かを得られる訳でもないので、自分なりに頑張ってみる。

手の届く範囲がもう少し広がれば、と心の底から願う毎日。


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